鞆城の前身となるのが市街中心部の丘陵に築いた鞆要害である。
鞆要害は尼子氏への抑えとして築かれたもので、城域は発掘調査の結果などから概ね鞆の浦歴史民俗資料館一帯であったと推定されている。
1576年には鞆要害に京都を追われた足利義昭が滞在し、毛利氏の庇護の下で「鞆幕府」とされた。
安芸備後を与えられた福島正則により鞆要害の築城が開始され、鞆城と呼ばれるようになった。
鞆城は丘陵部の本丸を中心に二の丸、三の丸が囲み、その城域は、南は鞆港、東は福禅寺、北は沼名前神社の参道まで達する大規模なものであった。この時、3層3階の天守も建てられたといわれている。
築城は1609年まで続けられたが、瀬戸内海の中央で戦略的にも枢要な鞆において大きな築城は徳川家康の嫌疑がかかり廃城となる。
鞆の浦歴史民俗資料館
鞆のシンボル:常夜燈
付録:「血系図」のブログを新しく始めました。あまりにも専門的なので、
「私の城攻め」もそちらに移ります。
岡山藩の歴史は 「尾道ゆったり歩き記」より転記します
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