岡山城はリニューアルオープン

11月5日 岡山城

月見櫓 城外から見ると二層、じつは三層

不明門

石垣

 

宇喜多秀家は、岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築く(1597年天守完成)。
岡山城天守は、外壁は黒塗りの下見板で覆われていて、

  烏城(うじょう)の別名があります。
天守の石垣や1階の平面が不等辺五角形をしているのも特徴の1つ
戦災で焼失したが、1966年には、往事の姿を偲ばせる天守が再建されました。


2022年11月3日 岡山城は令和の大改修を終えてリニューアルオープン



******新岡山城の案内


2F 池田光政と綱政 ~江戸時代の岡山~
政治改革を行い、人づくり、まちづくりを極めようとした池田光政
後楽園をつくり、干拓で大地を拡げた池田綱政

3F それぞれの関ケ原 
関ケ原の戦いを軸に、

宇喜多秀家小早川秀秋池田輝政の3人の生涯を紹介しています

4F 岡山 戦国の表舞台へ ~宇喜多直家と秀家~
宇喜多直家により岡山のまちは始まり、その子・秀家により、今につながる岡山城が築かれました。

5F 今につながる城下町 
宇喜多秀家小早川秀秋、池田家と歴代城主が城下町を整備


初代城主  


宇喜多 秀家(うきた・ひでいえ)1572~1655
父直家の代から岡山を治めた戦国大名
石山の城の隣の丘「岡山」に天守を持つ新たな城を築き、城下町づくりを行った。
天下を統一した豊臣秀吉の時代に有力大名となる。
日本史上最も有名な戦である「関ケ原合戦」では、西軍の主力となって戦ったが、

破れ、その後、八丈島に流刑となり、同地で約50年暮らした。

 

2代城主  

 

小早川 秀秋(こばやかわ・ひであき)1582~1602
豊臣秀吉の甥として生まれ、「関ケ原合戦」では、勝敗の重要な鍵を握った。
関ケ原合戦」後、岡山城に入場し、改築に取り組んだが、
岡山に来て2年足らずで、21歳の若さで亡くなった。


5代城主  

 

池田 光政(いけだ・みつまさ)1609~1682
自ら先頭に立って政治改革を行い、

政治や教育、災害対策など現代につながる岡山の基礎を築いた。
江戸時代初期の名君として知られる。


6代城主  

 

池田 綱政(いけだ・つなまさ)1638~1714
新田開発や治水事業に取り組む。
文化にも明るく、岡山城に隣接する日本三名園の一つ「岡山後楽園」を造営した。


6F “烏城” 岡山城の魅力 最上階の姿 

 

付録:「血系図」のブログを新しく始めました。あまりにも専門的なので、
      「私の城攻め」もそちらに移ります。
岡山藩の歴史は 「尾道ゆたっり歩き記」より転記します

系図とは: https://yo3519.hatenadiary.com/entry/2022/03/25/215403

岡山城: https://yo3519.hatenadiary.com/entry/2022/12/09/170124

毛利重就の娘の血系図: https://yo3519.hatenadiary.com/entry/2022/06/15/224342